J.Sさん(46才)
―森からの声が背中から膻中ヘー
十月二日夕方から四日朝にかけての二泊三日の外気照射気功研修旅行に参加者の一人として今回、初めて参加させていただいた。行先は、秩父のせせらぎの宿だった。参加の日5時から一時間半程の宿の下の杉木立と森に囲まれた川原の石ころの上に立っての練功だった。せせらぎの音としきりに鳴く虫の音につつまれての練功だったが、站とう功の時間の何と長く感じたことか。夕暮れの闇のなかで杉木立を背にして立つ于永昌先生の姿を三日月のあかりが照らし出している。その姿は、まるで木像のように見える。ただひたすら「収功しましょう」との先生の声を待ちながら両足の痛さも忘れて尾低骨で石ころの上に立っていた。
夜の練功の際、先生は外気の出し方を見せて下さった。目を凝らして見ていると先生の頭上10cm位の所に薄く白い雲のようなものが浮かび、その上をつきぬけて沢山の糸のようなものが上に向かってすごい勢いで昇っていく。肘の所に何かエネルギーが輪を描いて回っている感じがし、丹田の前で組んだ両手の輪郭が二重になっている。
同屋の二人とも翌朝五時の練功時間が気になり、なかなか寝つかれなかった。起き上がって夜明けまで站とう功でも練功したいような気持だった。翌朝、早めに玄関に行くと既に先生は玄関先の金木犀の木の前にお立ちになっていた。河原での練功中、どこからともなく金木犀の花の匂いと焚き火の匂いがしてる。金木犀は先生が身につけてきた匂いであり、焚き火の匂いは、夏のキャンプ客が、河原で自炊した日の匂いであった。宿に着いた日の僅か一時間半程の河原での練功と集団外気の後の練功の間に、先生は、ご自分の気の力で参加者たち各自のそれぞれのツボを開いて下さってしまっていた。
また夜の練功の時間には、採気の仕方、修性(徳、品性を修める)を教えて下さった。
宿の庭で、各自、自分の好みの本の前に立つ。私は、合掌することも忘れていきなり「強くなりたい」「松の木のように上虚下実で立ちたい。よろしくね」と胸の中で叫びながら松の本の前に立った。站とうの姿勢で半眼になった瞬間、松の木が私の膻中めがけ動いてくる。驚いて目をあけるともう一度たしかに胸の前に松の木が寄ってくる。「松の木が動いた」と驚いたが、心を取り直しそのまま站とうの姿勢で、半眼で松葉の枝を見るとキラキラ金色の花が松葉の上に咲いている。松葉に花が咲くのか、不思議な松の木を眺め上げて見ると、上の枝の松葉から昨晩みた先生の頭上高く昇っていったものと同じ糸のようなものがすごい勢いで空に向かって昇ってゆく。採気を終えて玄関へ戻りながら先生にそのことを伝えると「このようなやり方をすればレベルが上がる」と何気なくおっしゃたが、本来、気功鍛練とは自然界の中でやるべきなのだとお考えなのだろう。
先生は、若い頃、朝三時から七時まで四時間の間、山の上で練功なさったと言う。中国の自然のなかで吹きつける政治の嵐の中で、どのようにして身を守り、どのような試練に耐えて気功鍛練をなさり、その能力を身につけたのであろうか。
後で、松の本が動いたのは、歓迎のしるしだ、松の木と私は相性が良いと教えていただいた。松の木が動いたその夜の深夜のことである。窓の向こうの森に背中を向けた時、森からの声が、いきなり「お前の前世は、囚人だった。お前は一つの業を持って生まれたのだ。これまでお前の身に起こったことは、すべて前世からの因縁だった。だが、お前は懺悔した。もう許してやる」と背中から胸に言葉が届いた。確かに森からの声だった。森の精たちは先生の気に誘導されて一斉に言葉を話し始めたょうである。声をかけても返事もせず、話しかけてもくれぬ人間たち。一体、何年の問森の精たちは、気の伝導者とも言える于先生の来訪を待ち続けていたのだろうか。私に前世を告げるために眠って待ち続けた秩父の森の精たち。自然界との交流能力を持った先生に伴われて私の来るのを待ち続けていたのだった。一体、どれほど長く待ち続けていたのだろうか。
「囚人」という言葉には驚くが、そして私は、いつも森に背を向けて河原に立っての練功で懺悔の記憶はないが、夜の広間での自己紹介の時を思い出す。今回、通慧功が、性命双修、健康長寿だけでなく人間の道徳、品性を向上させるものだと知り、人間の尊厳を身につけた先生のすばらしさは、練功によって身についたものだと知り、それならば私も頑張って練功して先生のようにすばらしい人になりたいと挨拶した。先生や参加者たちに向かって「よろしくお願いします」と手をついて頭を下げた。私はその時だけ森に面して座っていた。その姿を、森の精たちは、自分たちに謝ったと勘違いしたのではないだろうか。
それとも練功して、道徳、品性を身につけるということは、真人間になり、罪が消えるということなのだろうか。森からの声で「輪廻転生」人は生まれ変わるものだということ、「業」というものを背負った病気があること、木や石ころ総べての生物には命があり、言葉があることを知らされ、先生の自然界との交流能力の威力を知らされ、遠隔気功の気の威力を見せられた思いである。先生は河原での練功の際、参加者たちに外気を浴びせかけながら、森の精たちと話していたのだ。先生は、気の道の達人だった。僅かの間に、私の百会のツボを大きく開いて下さっていた。
翌朝、最後の練功で河原へ下りる前に、昨夜の松の木に「おはよう」と声をかけ僅かの時間採気する。松の木は、ざわざわと挨拶を返し松葉の下で広げた両手に強い気を注いでくれる。河原で地粧の姿勢で労宮の強い気の感覚に気を取られている時のことである。左胸の上にスっ―と黒い邪気の固まりが現れてスッーと森の方へ消えた。ほんの一瞬のことだった。にぎりこぶし大の邪気の国まりだった。こんなものを体の中に抱えて生きていたのか、そのことを後で先生に告げると「そうですか、邪気がでました。よかったですね」といつもの笑顔で自分のことのように喜んで下さった。
帰り際に「松の本」の前に行くと「きた、きた」何か松がキキーキャー騒いでいる。静かに静かに松葉の枝が私に寄ってくる。私もまた松葉に体を近づける。「さようなら、また来るわ、元気でね」言葉をかけながら、体一ぱいに採気する。
頭が良くなりたいと本気で願い、于先生の気の力ならば例え一時的にでも頭が良くなるかも知れないと期待しての参加だったが、僅か二泊三日の旅で、集団外気照射の威力をこの身で体験させられて、驚きのあまり目を見張ってしまっている。通慧功は、まさに医療気功であり、潜在能力開発気功である。